「佐賀新聞」に岩永学長の記事が掲載されました

2024年1月21日付「佐賀新聞」に岩永学長の記事が掲載されました。新規タブで開く

<ろんだん佐賀>佐賀生まれの関東人 故郷は遠きにありて想うもの 
放送大学長 岩永雅也さん  
 小さな厚手のオーバーに身をくるみ、東京で教職を得た父親と一緒に国鉄肥前山口駅(現JR江北駅)のホームに少し震えながら立っていた3歳の少年は、やがて滑り込んできた急行「雲仙・西海」の三等車に乗り込んだ。まだ見ぬ東京という町のこと、そこで待っている新しい母親との生活のことなど、不安だらけで、それでいてどこか新しい世界への扉を開けに行くような不思議な高揚感を覚えながら、ほぼ丸一日、初めて見る車窓の景色に見とれつつ、時々うとうとしながらも、23時間以上におよぶ満員列車の旅の末にようやく東京に到着した。 
 鉄道も通わない嬉野の温泉町からさらに峠に向かって登っていく吉田の茶作り村しか知らない少年の目に当時の東京がどう映ったか。今となっては記憶も定かでないが、ただ一点、周囲の人たちの話しかける標準語がほとんど理解できなかったことには強烈なストレスを感じていたようで、今は亡き父親から「雅也は『(皆の話が)いっちょん耳ンかからん!』といつも泣いていたなぁ…」と、昔話を何度も聞かされたものだ。 
 それから60有余年、嬉野への帰省機会は冠婚葬祭などを除くとほんの数回にとどまり、東京と千葉の都県境に近い何カ所かの町で教育を受け、仕事をしてきた。つまり、良くも悪くもほぼ完全な「関東人」となり、佐賀弁も耳にかからなくなっている。その私が、佐賀で働いているわけでも佐賀の学校を出ているわけでもない私が、今回新たな「ろんだん佐賀」の仲間に入れていただくのである。お話をいただいた時に戸惑いがなかったと言えば嘘になる。伺えば、実際、これまでの寄稿子諸氏はほぼすべて何らかの意味で「佐賀人」か少なくとも「九州人」であり、書かれたものも地域発の内容が主であったという。 
 それならば、と翻って考えた。佐賀で生まれた関東人が遠くにあって想う佐賀を、中にいては見えにくい「外から見た佐賀」を、朴直に書き連ねていったらどうだろう、それこそ私が「ろんだん佐賀」寄稿子の末席に連なることの意義になるのではないだろうか…そんな思いで本年の「ろんだん佐賀」への寄稿をお引き受けすることとなった。読者の皆さんには、これから1年間のお付き合いをよろしくお願いしたい。 
 さて、前置きが長くなった。今回の稿の最後に、他地域の人々から見た佐賀のプレゼンス(存在感)について簡単に触れておきたい。まず、歴史的プレゼンスである。大河ドラマ化された司馬遼太郎の一連の幕末物の人気もあって、明治維新を主導した著名人士の出身藩である西南雄藩つまり「薩長土肥」を知らない日本人はいない。また、それぞれの藩の現在の県名もよく知られている。事実、誰もが「鹿児島、山口、高知」と3県までを正解する。しかし、多くが「肥」で考え込む。あるいは、「肥後=熊本」と誤答する。悲しいことに「肥前=佐賀」という正解に関東圏ではなかなか出会えない。この知名度の違いはなぜなのか。『翔ぶが如く』(薩)、『世に棲む日々』(長)、『竜馬がゆく』(土)と『歳月』(肥)(い ずれも司馬遼太郎著)の小説としての面白さの違いなのか。それとも何かより本質的な差異があるのか。次回はそのあたりを考察してみたいと思う。 
いわなが・まさや 1953年嬉野町生まれ。就学前に千葉転居。筑波大付属高―東京大卒―同大学院修了。大阪大、放送教育開発センターを経て2000年に放送大学教授。21年から放送大学長。専門は教育社会学。チョウ、馬、自転車、農作業など趣味は雑多。千葉市。

※佐賀新聞社許諾済み

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